江戸時代の「私塾」といえば、幕末から明治にかけての日本を支える数多くの人材を輩出した「松下村塾」が最も有名です。
松下村塾は、「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産の構成資産のひとつでもあるぐらいですから。
では、その次はというと「適塾」ではないかと思われます。松下村塾と適塾で江戸時代の「二大私塾」と呼ぶ場合もあります。
適塾の遺構は、都心のビルの谷間に文化遺産として残っています。
適塾は都心のビルの谷間にある重要文化財
適塾は、大阪市営地下鉄・京阪電鉄「淀屋橋駅」と「北浜駅」の間にあり、周囲は日本生命など大企業の本社が立地するオフィス街になります。
文化遺産としては有名なこちらの幼稚園のちょうど北側に位置しています。
近くには「旧小西家住宅」もあり、それぞれ重要文化財に指定される貴重なものなので、一気に見ることができます。
適塾の設立者は「緒方洪庵」。
緒方洪庵は、武士であったが同時に医者でもあり、蘭学者でもあった。洪庵はこの私塾を開き後世に残る偉大な人材を数多く輩出しました。
その筆頭が「大村益次郎」と「福沢諭吉」です。大村益次郎も福沢諭吉も適塾の門下生であり、初代塾頭の緒方洪庵の後にそれぞれ塾頭に就いています。
大村益次郎は、「維新の十傑」と呼ばれる倒幕と明治維新に力を尽くした人物で、靖国神社の中央に大村益次郎の像が建っています。
福沢諭吉は、もう説明がいらないですが、著作「学問のすすめ」や慶應義塾を後に設立するなど、日本の近代化や教育に大きな影響を与えました。
東側。
福沢諭吉は慶應義塾の分校である「大阪慶應義塾」を開設してますが、廃止されま跡地の記念碑が適塾の近くにあります。
適塾の中は見学ができます。今回は先を急いで時間がなかったので、次回訪れる時は内部も見てみたいです。
懐徳堂は町人による町人のための私塾
大阪の私塾といえば、適塾に次いで有名なのが「懐徳堂(かいとくどう)」です。
江戸時代の大坂は、幕府がある江戸と比べると町人が力を持った都市でした。そんな大坂の「町人による町人のための私塾」である懐徳堂は大坂らしいものです。
大坂といえば経済都市というイメージが強いですから、町人いわば商人のための私塾となると、商売に役立つような“実学”を学んでいたようなイメージを持つかもしれません。
しかし、懐徳堂で学ばれていたのは儒学。中国の古典「論語」や「孟子」などが読まれていたわけです。
商売に孔子や孟子の教えというのは、あまり意味がないような感じもするかもしれませんが、正義を持った商売には、後から必ず利益となって返ってくるというという道徳を大坂の富豪たちは持っていたようです。
なお、適塾と異なり、懐徳堂は堂舎は残っていません。その跡に石碑が建っているだけです。
石碑がある場所は日本生命本社ビルの南側になります。
適塾と懐徳堂は大阪大学のルーツ
適塾と懐徳堂、江戸時代の大坂の二大私塾ですが、大阪帝国大学つまり現在の大阪大学のルーツだといわれています。
大阪大学は、旧帝大の中でも東大や京大に次いで入学難易度が高いですが、その歴史は意外にも新しく日本で六番目にできた帝国大学です。
創立は1931年(昭和6年)。東京帝国大学が1886年(明治19年)、京都帝国大学が1897年(明治30年)の創立ですから、隣接都道府県の京大でさえ、30年以上の差があったわけです。
しかも大阪帝国大学は設立時、理・医・工の理系3学部しかなく、文系学部の創設は戦後になってからになります。
このように創立が遅かった大阪大学ですが、医学部は「大阪医科大学」が前身です。その大阪医科大学のルーツが適塾になります。
大阪大学の文系学部は戦後1949年(昭和24年)に創設されますが、懐徳堂の蔵書が懐徳堂記念会より文学部へ寄贈され、充実された文系学部の基盤となりました。
このように懐徳堂も適塾と同様に大阪大学のルーツだったわけです。
現在大阪大学が、豊中、吹田、箕面など大阪の郊外がキャンパスになっていますが、もともとは中之島が発祥の地で、その発祥の地中之島で、新たに大阪大学の再生医療拠点が建設する計画があります。
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